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「吉田先生はどうやって英語が出来るようになったのか?」-思い出話


(1)「吉田先生」は帰国子女!?

    エッセイの第一弾です。まずは自分のことから話をしたいと思います。自慢話をする様で、とても恥ずかしいのですが、生まれた時から英語が出来たわけでも、ある日突然出来る様になったわけでもなく、自分なりに色々な苦労をし、経験を通じてだんだん出来る様になったのです。それが「今現在どれだけ英語が苦手でも、『やりたい』という気持ちが本物ならば、絶対出来るようになります!」と言い切る理由です。参考になるかは分かりませんが、そんな吉田先生の英語に関する思い出話をしたいと思います。

    自分で言うのも本当にナンなのですが、私は英語が得意だと思います。実際には全然満足などしていなくて、「え、この単語知らない」とか「そんなフレーズ知らなかった」というのはいくらでもあって、ネイティブの人の様に英語を使いこなせるかと言えば全然そんなことはありません。まだまだ勉強することはあると思っていますし、実際今でも新しい単語に出合った時などは、それを自分が使える語彙として身に着けるために努力を重ねています。とは言え、長年の付き合いで、英語自体で苦労することはほとんど無くなってきたと感じています。海外はもちろん、国内で開催する国際会議などでも、英語でプレゼン、討論をすることは良くありますが、「吉田先生って、物凄く英語お上手ですね。一体どこで英語を勉強したんですか?帰国子女ですか?」とか「吉田先生が話す英語だけ、他と全然違って聞こえるんですよね。」とか、お褒めの言葉を頂いたことは何度もあります(すいません!自慢、自慢!)。帰国子女ではありませんし、岐阜県出身の思いっきり日本人で、なんと初めて日本国外に出たのが(初めて飛行機に乗ったのも)27歳の時で、英語が母国語のアメリカやイギリスに留学したこともありません。英語の勉強を始めたのは、多くの皆さんと同じ、13歳(中1)の時からで、英語は比較的好きな教科でしたが、英会話なんて全く出来ず、初めて人前で英語を話すようになったのは、確か25歳の時だったと思います。つまり、化学英語Iを受講している学生の皆さんの年齢だった時には、全然英語を話せませんでした。


2)時は「バブル全盛期」、卒業研究で理化学研究所へ

    そんな人がどうして英語が出来るようになったのでしょうか?自分が東京理科大学の学生だった時、卒業研究で埼玉県和光市の理化学研究所に行かせてもらうことになりました(1989年のこと)。こんな話をインターネット上で暴露して良いものかと思いますが、研究の面白さが分からず(不勉強なせいですが)、遊んでばかりの劣等生でした(金子先生には本当にご心配をおかけしました…スイマセン!)。時はバブル華やかなりし頃、学友が有名企業からどんどん就職内定をもらう中、意識の低い吉田少年は「俺ってこんなんで社会人になって良いの?」という漠然とした不安から、「就職活動」なるものをすることが出来ませんでした。不勉強なくせに、「自分は世界で活躍するんだ。面白い人生を生きるんだ。」という野心だけはありました。ところが「私はコレを勉強しました!」と胸を張れるものが何もない。特に肝心の化学に関しては全然…。時が時だっただけに、就職を希望すればそんな劣等生の自分でもすぐに内定がもらえそうな雰囲気はあったのですが(実際は試していないので分からない)、それが自分をより不安にしました。身の程を知っているだけに、仮に有名企業に雇ってもらえたとしても、あっという間に取り残されて、「世界で活躍する」どころか、散々コキ使われた挙句クビになるのでは?と社会デビューする勇気が持てませんでした。バブル期の就職状況の話をすると、いまどきの学生さんは「えー、うらやましい!」と思うかも知れません。私自身はそのチャンスを逃し、大学院に進学後見事にバブルがはじけてしまったのですが、結果オーライで後悔はしていません。異常なまでの就職売り手市場の中、「もしどこからも内定もらえなかったらどうしよう!?」という恐怖は全然ありませんでした。それだからこそ、「こんなんで良いのか?」と自分自身について考えることが出来たのかな、と思っています。


(3)埼玉大学大学院へ、しかしモラトリアムな私

    埼玉大学の大学院修士課程に進学後、同じ理研の研究室で研究をバリバリやって、メデタシ、メデタシ、とはいきませんでした。まだまだその先があるのです。大学院に進学したにも関わらず、吉田少年は相変わらず不勉強者のモラトリアム人間でした。「あーでもない、こーでもない」と自分の将来をイメージだけで語るのですが、その「面白い人生を謳歌している将来の自分」と「現実の自分」のギャップを埋めるための本気の努力は出来ないままです。「これは自分の仮の姿、本気を出せば…」と思いたくても、実際には出来ない、イケてない自分を知っていて、ひたすら模索をするのだけど、「これだ!」なんて言う勇気はとても無い。コンプレックスの塊でもありました。理研に居ると、周りはプロの研究者ばかり。オジサン、オバサン(特にオジサン)の世界です。時々理研でシンポジウムなどがあり、そのお手伝いをするのですが、そうすると、T大学とかK大学のとても優秀そうな大学院生の方が来て、バリバリ研究発表をするのです。理科大経て埼玉大の私は、「こいつらには絶対化学では敵わないよな…」という負け犬意識が染みついていました(理科大、埼玉大のOB, OGの皆さん、同類扱いしている様でスイマセン!私だけです!)。さらには、寄せ集め研究室だった理研の研究室には、色々な大学の学生が居て、特に同期で今でも親交のあるW大学のN君(今は某有名理系大学のN先生)などは、内心密かにライバル視しつつも、「あいつには敵わないな…」といつも感じていました(N先生、本当ですよ!)。「自分の売りは何?」「○○させたら、吉田だよな!」と言わせられる何かが欲しい!と思っても、結局はモラトリアムな自分を脱せず、時間だけが過ぎて行きます…。(まあ、少しは研究みたいな事をやっていましたけど。)


(4)吉田少年、「イタリア語」に逃げる!

    「何とかしなくては」という焦りと、ちょっとしたきっかけがあって、何を血迷ったか、吉田少年はイタリア語の勉強を始めました。「何でイタリア語?」って思いますよね?冗談で、「ガルバニだって、ボルタだって、電気化学の創始者はイタリア人だぜ!」と周囲に言っていましたが、それが理由ではありません。自動車やオートバイが好きで(今でも好き)、イタリアのそれらがカッコイイ!「陽気なイタリアン」とよく言いますが、「陰気な日本人」というか「陰気な私」。「キチンとした日本」の対極にある様な、「いい加減なイタリア」にとても惹かれて、「イタリア語を勉強して、イタリアに行くぜ!」と無理矢理な感じで自分の道と信じ始めました。「化学勉強している日本人で、イタリア語勉強する人なんて滅多にいないから」というのもヘンテコな理由でした。他の人には無い何かが欲しかったのだと思います。金子先生からは「吉田君、なんでイタリア語なんてやるんですか?ドイツに行った方が良いですよ。」と言われましたが、地位も名誉もある先生からそう言われると余計に反発して…(金子先生、スイマセン)。元々コミュニケーションが好き、しゃべるのが好きな私は、言語の勉強は好きでした。しかし、入試勉強のために勉強し続けてきた英語は好きになれない。研究に英語が重要なのは明らかなのに、イタリア語なんてほとんど役に立たないのに(実際には科学用語の多くがラテン語源なので、それらの理解には役に立った)、全く経験の無かったイタリア語だからこそ、単に好奇心に突き動かされて「やってみよう」と思ったのかも知れません。そして、イタリア語の猛勉強が始まります。英語が出来ないくせに、です。本当に「猛勉強」でした。


(5)イタリア語猛勉強!新しい世界に出会う

    よく続けられたものだと思いますが、およそ1年の間、独学でイタリア語を猛、猛勉強しました。1日のほとんどの時間をイタリア語の勉強に使っていたかも知れません(金子先生!不真面目な学生でした!重ね重ねスイマセン!)。外語大のイタリア語科でも使っている白水社の教科書、問題集等を取り揃え、発音練習のテープも入手、NHKテレビとラジオの「イタリア語会話」の番組も欠かさず録画、録音して何度も見聞きしました。新しい単語を覚えるために、単語帳を沢山作りました(イタリア語では、例えば動詞が時制や人称で変化して、100以上のバリエーションがあります)。日本では全く知られていない、イタリアのミュージシャンのCDを苦労して入手し、車でも家でもいつでも聞き、そのうち歌詞も覚えて一緒に歌い…。ある人の紹介で、イタリアの方と文通(懐かしい言葉!)も始めました。もうイタリア語漬け!そうすると、どんどん出来る様になり、簡単なイタリア語会話は充分に出来る様になってきました。そして遂に、NHKテレビ教育放送の「イタリア語会話」に出演までしたのです!(NHKアーカイブスを探しても、それは見れないと思います。)今でも時々テレビに出てくる某イタリア人芸能人にも、その時会いました。その番組の収録の時、お手伝いで来ていた東京外語大のイタリア語科の学生さん(1年生)と会いましたが「えー、吉田さんって、どうしてそんなにイタリア語出来るんですか!本当に始めてまだ1年も経たないんですか!ショック!!!」と驚かれてしまいました。そりゃあ、向こうは本気でこれからイタリア語を勉強しようという外語大の学生さんです。理系の学生がイタリア語を猛勉強しているのは、驚きだったかと思います。さらにその番組を通じて、日本に留学しているイタリア人の学生さんとも知り合い、それを通じてイタリア語をちょっとだけ勉強している美術系の日本人の学生さんとも知り合い、それまで全く知らなかった世界の人達と知り合うことが出来ました。イタリアに帰った友人に、一念発起して電話をかけたところ、そのお母さんと思われる方が電話に出て、”Pronto? Mi chiamo Tsukasa Yoshida. Sono Giapponese…”とド緊張しながら国際電話をかけたのも、懐かしい思いでです(その後全然会話にならなかったけど…電話で話すのって難しい!)。

    残念なことに、その後パタッとイタリア語の勉強をやめてしまったので、今では断片的な知識しか残っていません。しかし、この経験を通じて得られたのは「本気になれば、自分にも何か出来る様になるのかも?」という漠然とした自信だったのかなと思います。それと、全然違う世界の人達と知り合ったことで、自分の世界が広がっていくことの面白さ、ワクワク感を感じて、自分が行動することの大切さを実感したのだと思います。このイタリア語勉強期を通じて知り合った方々、今では連絡先も分からなくなってしまいました。楽しかったこともあり、ご迷惑をおかけしたこともありました。ありがとう、スイマセン。私には本当に大切なターニングポイントになりました。心から、感謝、感謝です!


(6)ついに『その時』来たる、博士課程進学を決心

    さて、いよいよ「その時」がやってきます。イタリア語に没頭して、思いっきり脇道に逸れているうちに、修士課程も二年目に突入していました。埼玉大の研究室の同期の友人だった、M君は、迷うことなく就職活動に入り、見事某有名化学メーカーから内定をもらいました(今でもその会社で活躍中です)。M君とも多くの時間を共有し、語り合いましたが、迷うことなく自分の道を突き進む彼がうらやましかったです。時間切れの様にして、これから先のことを決めなくてはならない時が迫り、それでも相変わらずジタバタしている吉田少年でしたが、上記のイタリア語での経験が引き金となって、遂に「化学を全力で勉強しなくちゃならない」と思う様になるのです。同時に、研究に必須な「英語を勉強しよう」、と思いました。「イタリア語が出来たんだから、英語だって出来る」と受験科目だった英語が持つ重苦しさを振り切って向き合うことが出来るようになりました。あと、他の人と自分を比較することもやめました。「○○よりも勝っているか、劣っているか」ということを気にする以前に、「自分自身の最大」に挑戦しようとしていない自分を認め、反省したのです。化学の学校に来て、多くの時間とお金を使いながら、それを支え続けてくれた両親に対して「あのさ、俺ってやっぱり化学向いてないって思うわけ…」などとても言えない、とも思いました。イタリア語を勉強していた時には、「何か別の道が見つかるのでは?」という「化学」×「イタリア語」の化学反応による産物に漠然と期待し、やっぱり化学からの逃げ道を探していたのですが、結果は逆に自分を化学と英語に回帰させることになりました。「自分の最大に挑戦するだけ。それでどこまで行けるのかは分からないけど、それが自分のベストなら、他者との優劣など関係なく、『ベスト』じゃないか。自分はその挑戦から逃げ続けてきた。もう逃げないぞ!」と『腹をくくった』のです。そして、小遣い欲しさにそれまでやっていたアルバイトをキッパリやめ、「博士課程に行かせてくれ!」と両親にお願いしました。幸い奨学金はもらっていましたが、そんな無謀な決心に対して、恐らくは事の重大さに気づかないまま「お前がそう言うならば…」と信じて進学させてくれた両親には本当に感謝です。「まだ学生やるって?そんなに仕事したくないの?」という非難が周囲から聞こえてくるようでした。この決断が相変わらずのモラトリアムの産物ではないこと、問題の先送りではないことを証明しなくてはならない。ハッキリ、違っていたと思います。遂に、自分と向き合い、自分自身への挑戦を始めました。化学と英語の猛勉強が始まります。

    これは英語の勉強の思い出話のハズでしたが、博士課程で化学に本気で取り組む決心をした話になってしまいました。ただ、この二つは切り離せない、一つの決心なのです。モラトリアムな吉田少年が、大人になる重大なトランジッションだったと思います。「就職して給料もらう様になると大人になる」というパターンは多いと思いますが、そうじゃないと思います。もっとパーソナルな問題で、環境の変化ではなく、意識の変化が自分を大人に変えたと思います。自分にとっては、その後やってくる就職以上に重要な変化の時だったのではないでしょうか。


(7)英語の恩人、「ラジさん」との思い出

    この博士課程進学の決心と相前後して(実際には少し前だったと思います)、理研の研究室に、インド人研究者の「ラジさん」がやって来ます。確か半年ぐらいの期間だったと思いますが、このラジさんが、私にとってとても大切な英語の先生でした。小柄でいつもニコニコしているラジさんは、とってもいい方です。この頃になると、化学はもちろん、英語の勉強に本気で取組み始めていました。方法はイタリア語でやったのと同じ。テレビやラジオの英会話番組を録画録音し、ラジオを録音したテープは車に乗ってる時にはずーっと流しっぱなしで、運転しながら発音練習(特に、大杉正明先生の番組を聞いたなあ…)。文法は結構分かっているのですが、いざ話そうとすると、カタカナ発音になってしまうし、三人称単数の”s”が抜けるし、be動詞の人称変化さえままなりません(”They is…”とか言っちゃって)。それと、圧倒的な語彙の不足、というか、良く知っている簡単な単語で良いのに、それが出て来ません(例えば、”How long does it take to Wako station?” “It takes about 15 minutes on foot.”の様な簡単な会話さえ成立しないのです。”to”とか”on”が出てこない!)。知識としては、イタリア語よりもずっと知っているはずの英語ですが、実際使おうとすると、全然出てこない!英語の勉強で一番大切だったのは、「聞くこと」と「話すこと」のトレーニングでした。「英語を聞く→日本語に訳す→日本語でこたえを考える→英語に訳す→英語を話す」なんていうことをしている時間は全くありません。日常会話の場面では、聞いたことない、難しい単語が登場することはまずありません。それをサラッと聞いたまま理解し(日本語に訳してない)、同じ様にサラッと簡単な英語(それこそ、単語だけでも良い!)でこたえる、ということの難しさと重要さを痛感します。しかし、後にこれこそが自分の脳ミソに「英語回路」を作り上げるトレーニングであり、「英語回路」が出来て初めて英語を本当に理解出来る様になり、読むことも書くことも可能になるのだ、と気づかされます。

    このトレーニングに徹底的に付き合ってくれたのが、前記のラジさんです。巨大研究機関である理化学研究所には多数の外国人研究者が居て、隣の研究室には有名研究室出身のアメリカ人ポスドク、同じフロアにはオーストラリア人や英語の上手なドイツ人が居て、英語の先生はもっと他に居そうなのですが、これが簡単には行かない。金髪の、青い瞳の背の高いアメリカ人、とっても流暢に(当たり前だけど)、「ペラペラペラッ」と話します。もちろん、カタコトの英語を話す日本人学生に対して、フレンドリーに付き合ってくれるのですけど、例えばこちらが何か言いたくて、最初の一単語を言った後、次が出なくてつまづいていると、先を見越したかの様にさらに「ペラペラペラッ」と来ます。これが猛烈なプレッシャーになり、相手を待たせていることが申し訳なくなり、気軽に話しかけることがどうしても出来ません(経験ある人は分かるでしょ?この感じ)。一方のラジさん。母国語ではないので、とっても、とっても忍耐強くプアな日本人学生が英語を話すのを待ってくれます。しかし、インドは多言語国家、英国領であった歴史もあって、例えば大学での教育は全て英語が常識。日常的に英語を使っているため、ラジさんの英語は文法完璧、語彙も大変豊かです(語彙の豊かさは教養に依存します。日本人だと全員日本語の語彙が豊かなわけでないのと同じ。ラジさんはとても教養のある人なので)。自分の英語の間違いを正してくれたり、正しいフレーズを教えてくれたりします。唯一発音だけは、下手くそというか、超インドなまりなので、真似すべきではありませんが、逆にその個性的な英語がこちらをリラックスさせてくれます。さらに、西洋人は日本語全く出来ないくせに一人バックパック担いで”I went to Mt. Fuji last weekend. It was fantastic!”とか言うので、その自立心と行動力に驚かされるのですが、アジア人のラジさんは人懐っこいというか、人を頼りにしてきます。故郷を遠く離れて一人で生活する外国人留学生は、基本的には人恋しいもの。逃げるどころか、一生懸命コミュニケーションを取ろうとする珍しい日本人学生を見つけて、ラジさんは何でもかんでも私に相談してくる様になりました。ラジさんとはとっても仲良くなり、化学の相談はもちろん、インドの話を聞いたり、日本の風習を説明したり、自分の人生の相談や恋愛や結婚のことについて話したり…本当にいろんなことを話しました。週末のある日のこと、お金の無い二人は東武東上線に乗って池袋へ。何を買うわけでもなく、ひたすらウィンドーショッピング。多分買ったのはソフトクリームぐらいだったと思います。自分は辞書を片手にずーっとラジさんとお話。ラーメンが大好きなラジさんと晩御飯にラーメンを食べてから別れ、自分の下宿(兄貴と一緒に住んでた)に戻り、「おっ」ぐらいの言葉を交わしたかどうか、良く覚えていませんが、布団の中に入り、「あ、今日俺って一日中英語だけ話してたな。日本語全然使わなかった。」と気づきます。お金も時間も無いから、当然英会話学校など行かないのですが、そんなことをしなくても、一日中英語漬けになることは出来るんだ、と嬉しく、希望を新たにしたことを覚えています。


(8)吉田、ついに「英語デビュー」

    そんなラジさんとの日々を経て、英語能力、特に会話能力はメキメキと上達(「英語回路」が出来てくる)したのですが、金子先生の目の前ではどうしても使えません。先生の前で間違えるのが嫌で、英語がちょっと話せるようになっていることも隠していました。(「なんで?」って思いますか?学生の心理ってこういうものですよね。先生の前では緊張するし、間違えたくない。先生になった今、この頃の自分の心情を忘れずに学生と付き合ってあげなくちゃ…)仕事が仕事だけに、理研の研究室にはよく外国人の先生がいらっしゃいました。例えばお昼ご飯を一緒に食べていて、先生が海外の先生とお話しをするわけですが、それを傍で聞いていると、「なんだ、簡単なことしか言ってないな。全部分かる…」。もちろん話題が超専門的な話になると分からないのですが、例えば話題が自分も関係する様なことに及ぶと、ちょっとここで一言二言話したい、と思うのだけど、口を開く勇気が無い。しかし、ラジさんとのトレーニングで実力を着けた後のある日のこと、確かあれは後に大変お世話になることになる、ドイツ、ブレーメン大学のヴェーレ先生がいらっしゃった時、ついに、突然、恐らく金子先生を上回る勢いで、英語を話し始めました。金子先生には確認していませんが、「なんだ?こいつ英語出来るのか?」と思われたのではないかと思います。ラジさんと話しているのを聞いていたと思うので、別に驚きではなかったかも知れません。でも、これが自分にとっての本当の「英語デビュー」だったように思います。それからというもの、吉田は研究室きっての「外国人担当」になりました。外国人のポスドクの方などが来ると、金子先生から「吉田君、○○さんの実験の立ち上げとか、世話をお願い出来ますか?」と言って頂けるようになり、特に金子先生が茨城大教授で異動された後の研究室では、多国籍な研究室の運営に一定の貢献を出来る様になりました。それがますます自信になり、「俺、これだったら向いてるかも。英語、外国人との共同とかなら、化学でもそれを強みに出来るかな…」と考えられるようになっていったのです。


(9)初の海外、ドイツで国際会議、そして憧れのイタリアへ!

    そして遂に初めての海外を経験することになります。27歳、D2の時(小生、一浪の4月生まれ)でした。「ドイツは嫌、行くのはイタリア!」と言っていたのに、結局「ドイツ」でした。先述のヴェーレ先生を議長としてブレーメン大学で開催された、高分子金属錯体の国際会議での研究発表でした。渡航費用は両親に「お願い、行かせて」と頼み、出してもらいました。初めての海外、折角航空券を買ってもらうのだからと、約1.5か月の欧州滞在でした。一番安かった大韓航空で、ソウルを経て、まずはフランクフルトへ。飛行機の窓から、日本とは雰囲気の違う住宅の屋根や道路、そこを走る車が見えて、「おお、ここにも人が住んでる!」といちいち興奮感激したことを覚えています。北ドイツのブレーメンへは、フランクフルトからドイツの新幹線、ICEに乗って移動です。同じ時にブレーメン大学に短期留学していた、TK大学のT君と一緒に、これまた同じ時に日本のS大学に留学していたGさんのアパートを使わせてもらい、家賃フリーで宿泊することが出来ました。既にある程度英語コミュニケーションに慣れていたので、ポスター発表は無事終わり、残りの時間はヴェーレ研究室の学生さんとの交流や、日本で知り合ったドイツ人の友人を訪ね、そして念願のイタリアへも行きました!

    ヨーロッパ内の移動は全て電車です。外国人しか使えない「ユーレールパス」(今でもあります)を使って、電車乗り放題!ところが、一番安い、2等車しか使えない「ユースパス」は26歳以下限定で、27歳の私は普通のパスしか使えませんでした。ガラガラで空いているし、折角1等車にも乗れるんだからと、ICEの1等車(シートが巨大!めちゃ快適!)に乗っていると、汚い恰好をした東洋人は明らかに場違いだったんでしょう、同じ車掌さんに何度も「切符見せろ」と言われたのを覚えています(もちろん、問題ナシ)。ドイツ南部のウルムに住む友達を訪ねた後(ご馳走になって、タダで泊めてもらって、出がけにはお母さんがサンドイッチまで作ってくれました)、長い道のりを電車でイタリアのブレシアまで。電車で国境を越える、景色が変わり、文化や言語が変わる、当時は通貨も変わる、という初めてづくしの経験に、驚き興奮する自分でした。「ブレシア(Brescia)」なんて聞いたことありませんよね?イタリア北部の街で、ミッレ・ミリア(Mille Miglia)というクラッシックカーによる1000マイルレース(ローマまで行く)のスタート、ゴール地点の街です。そのレースを見たわけではなくて、この近くに文通をしていたマルコさんが住んでいて、その方を訪ねて行ったのです。マルコさん(男性)、とっても良い人で、お母さんの作ったトマトソースのパスタは、この歳になった今でも「自分が食べた中で一番おいしかったパスタ」の座に君臨しています(Mamma Mia!)。ところがビックリ!マルコさん、なんとオカマさんでした~!私は無事だったんですけど、別れ際に思いっきりハグされて、キス(ほっぺだよ)されたのは、ちょっと、う~。元気かなあ?マルコさん。お世話になりました!その後、トリノ(Torino)に行き、シエナ(Siena)、ローマ(Roma)と南進し、最後にボローニャ(Bologna)に行きました。シエナは有名な観光地ですが、工業都市であるトリノなんてあまり観光客は行きません。観光なら絶対外せないフィレンツェなどは未だに行ったことが無いのですが、目的はこれらの街の大学の先生を訪ねて行くことだったのです。トリノ大学、シエナ大学、ローマ大学、ボローニャ大学に行きました。実は、この旅の前にこれら大学の電気化学や錯体化学で著名な先生方にイタリア語で手紙を書いていたのです(”Vorrei visitare il Suo laboratorio.”『先生の研究室を訪問したいです!』と)。当時は電子メールなどありませんでした。日本人の学生から、手書きの(恐らく間違いだらけの)イタリア語の手紙を受け取り、感激してくれたのでしょう、すぐに返事をくれました。大体の計画を伝えていただけで、本当に会えるか心配だったのですが、温かく迎えてくれました。いくつかの場所では大学のゲストハウス(綺麗なうえに、格安!)に泊まることが出来、貧乏学生にはとても助かりました。持っていたスライド(当時はパワーポイントでなくて、OHPというヤツ)を使って研究紹介もさせて頂き、イタリアの化学の学生さんとの交流も出来ました(ボローニャ大学の女子学生、可愛かったなあ…)。大学でのコミュニケーションは大半英語でしたが、ちょっとイタリア語を使うと感激してくれました。この頃にはイタリア語を大分忘れていて、思い出すのに苦労したのですが、イタリア語を勉強していたことがこの旅でとても役に立ちました。ドイツ語は全然出来なかったのですが、ドイツではどこでも英語が通じました。しかし、イタリアの街や駅、安ホテルではイタリア語しか通じません!(今は多分だいぶ良くなってる)カタコトでも、イタリア語を話すことで、全てがスムーズに行きました。ボローニャの後、また別のドイツの友人を訪ね、ブレーメンに戻って、旅をしめくくりました。この時、今でもとても仲の良い、20年以上続く共同研究者であるシュレットヴァインさん(今はギーセン大学の教授)にも出会い、共同研究のためにまたブレーメンに戻ってくる話をまとめたのです。まだまだ色々思い出話がありますが、このへんで。

    どうですか?思い出すと、自分でも「良くやったもんだ、すごい行動力だな!」と思います。それこそ若さのなせる業でした。この旅をやり抜いたことで、自分に大きな自信がついたと思います。実はこの旅の少し後には、共同研究のためにブレーメン大学に3か月行くことになります。その時の成果で、初の国際共著論文も書きました。後に岐阜大学の教員になってからは、多い時は年に5回以上海外に行くこともあるほど、日本と海外を行き来する生活が始まります。25歳まで英語が話せず、27歳で初めて海外に行った自分が、本当に「世界デビュー」を果たすことが出来たのです。多くの人に助けてもらったお陰ですが、第一に「絶対やるんだ!出来るまであきらめない!」と決意したからこそ、こういう変化を起こし、変化を受け入れられたのだと思います。


(10)就職、「英語」転じて「化学のプロ」へ

    実は、化学の大学職員となったのも、英語のお陰だったかも知れません。凄い成果とは言えないまでも、自分なりに一生懸命化学の勉強をし、研究に取り組んだことで、いくつかの論文を出すことが出来、あとは博士論文を書き上げる、という時期になってきました。しかし、その先の就職のことなど考えている余裕もなく、やっぱり就職活動はしませんでした。ポスドクとして、ブレーメン大学のヴェーレ先生の研究室に本格的に留学したいと思い、幸いドイツのDAAD奨学金に合格しました(当然、英語で面接とかありましたよ)。ひとまず次にやることが見つかったので、「留学している間にドイツの化学系企業への就職に挑戦しよう」などと考えていました(そうすると、自分が日本語が出来ることを売りにできる!)。ところが、今から振り返ると、「あれが自分の就職活動だったかな…」と思う出来事があって、別の方向に未来が展開することになるのです。先述の「ラジさん」は、自分よりもずっとキャリアが上の自立した研究者です。当時の日本の大学には、あまりインドからの留学生というのは居なかったのですが、(後に自分の上司になる)岐阜大学の箕浦先生は、「インド通」で知られ、複数のインド人学生や研究者を受け入れているアクティブな先生でした。ラジさんから「今度箕浦先生のところに行くんだ」と聞き、「ああ、それなら自分の田舎は岐阜だから、一緒に行こう、ついでに岐阜のいいところを紹介するよ。」となり、ラジさんと一緒に旅行となりました。理研でやったシンポジウムなどで、箕浦先生を見かけることは何度もありました。「(あの年代の先生としては)背が高く、色が浅黒く、英語が流暢」な箕浦先生は、自分にとって「カッコイイ先生」の一人でしたが、ちょっと強面なので(本当は優しい先生です)、恐れ多くて話しにくい印象で、岐阜大にラジさんを連れて行った時が初めて話をした時でした。

ラジさんの講演会があり、岐阜大学の先生や学生さんが大勢参加していました。自分もちゃっかり出席させてもらいました。質疑応答になり、何人かの岐阜大の先生からタドタドしい英語(失礼!)で質問があった後、「ちょっといいトコロ見せてやれ…」という下心があって、自分が挙手!「あのぉ、ラジさんを連れてきた立場でヘンなんですけど、自分も質問していいですか?」と切り出し、その後「ペラペラペラッ!」っと英語での質問、ディスカッションを披露したのです。「おお、この吉田っていう学生やるな」と思わせたかったのですが、そう思ってもらえたかどうかは、確認していません。その場はそれで終わり。そして上述のDAAD奨学金も決まり、D論の執筆に取り掛かった晩秋の頃です。金子先生に呼び出され、「吉田君、岐阜大の箕浦先生から話があってね。今度助手を採用するらしくて、吉田君応募しませんかって。どうしますか?」いや、どうするも、こうするもありません、「もちろん、受けさせて頂きます!」しかし、極めて狭い大学教員の入り口、それで決まるとは思っていませんでした。どうせ自分は数十人いる候補の一人に過ぎないだろう、と思っていました。アポを頂き、ド緊張の面接。しばらく歓談した後、箕浦先生からこんな言葉が、「いやぁ、僕は吉田君でいいと思ってるんだけどね。公募ですから、しっかり応募書類は準備して…」。「え、え!これって、就職出来るってこと!?」ちなみに、今は教員採用の仕組みも当時とは違ってきています。当時は何にも増して、直接仕事を一緒にやることになる教授の意向が一番重要。ということで、図らずも大学教員への道が開かれたのでした。

    ドイツ留学を断念することになったのは、ちょっと残念ではありましたが、常勤職と1.5年の留学を比較することは出来ません。DAADと色々助けて頂いたヴェーレ先生にお詫びして、奨学金を辞退しました。しかし、国大助手(当時は文部教官、国家公務員です)となった後は、ヴェーレ先生やシュレットヴァイン先生との共同研究が発展し、今日まで続く国際共同研究をすることが出来たので、留学よりも大きなものが得られたと思っています。さらにその後は3か月の短期留学を含むフランス、ENSCP(パリ)との共同研究、英国バース大学との共同研究、そして現在のリンツ大学(オーストリア)との共同研究、さらにこれから始まる米国バーモント大学との共同研究など、「国際連携に強い吉田」という特色を獲得することが出来ました。

    果たして、ラジさんのセミナーで英語が出来るところを見せたのが、箕浦先生が自分を指名してくれた理由であったかどうかは分かりません(確認してません)。ただ、自分を覚えてくれることになった出来事だったのは間違いないと思います。箕浦先生から、「(採用したのは)君を評価したからじゃなくて、金子先生を信頼しているからだよ」(うげー!厳しー!)と言われたのは覚えていますが、あれが自分の就職活動だったと今でも思っています。振り返ると、自分の場合は「英語」によって「化学」への道が開かれたとさえ思います。イタリア語を通じてモラトリアムを脱し、英語によって自分の化学が世界に開かれたと思います。そして今になっても、化学を通じて世界中の多くの仲間と仕事が出来ることに喜びを感じています。そこにもう「迷い」や「恐れ」はありません。自分の「化学」、そして「英語」にはもちろん満足しているわけではなくて、自分の能力不足を感じつつ、勉強を続けるわけですが、「これが私の出来ること、すべきこと」と思っています。


(11)終わりに―皆さんへのメッセージ

    ずいぶん長い話になってしまいました。最後まで読んでくれた皆さん、ありがとう、お疲れ様でした。「英語」のことだけ書くつもりだったのですが、振り返るとそれが自分の本職である「化学」とは切り離せないものであること、そして「イタリア語」に必死で逃げ込もうとした自分とつながっていること、に気付きました。結局、吉田先生の思い出話でしたね。当然ながら、これがそのまま参考になる生き方なわけではありません(書いていないけど、絶対真似して欲しくない、嫌な、辛い経験もありました)。一人一人、違う歴史があり、違うドラマがあると思います。あなたには、何が起こるか分かりませんが、吉田少年が吉田先生になるまでには、上記の様なドラマがあったのです。きっかけになること、ターニングポイントは必ずやってきます。ただ、それらは後になって振り返った時に、初めて「ああ、あの時だったな」と分かるものです。その渦中にある時には分かりません。今現在、モラトリアムに浸って悶々とし、恐れや不安に苛まれている人も、変化を起こす勇気を持ち、「絶対あきらめないぞ!」と動き始めれば、気づいた時にはそんな不安は霧散して、自分の道を突き進んでいることだろうと思います。だから、「勇気」と「一定の楽観」を持って、「英語を使いこなしている自分」に会える日を楽しみにして、頑張って下さい!    
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