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なぜ不安や恐怖に夢が負けてしまうのか? ―自律から自立へ    

モラトリアムからの脱却とアイデンティティーの確立
またしても、英語の学習方法のハナシではありませんが、どうしたら「英語やらなきゃ」から「英語やりたい!」に変われるのか、について考えてみたいと思います。英語の学習に限った話ではなくて、不安や自信の無さから足がすくんでしまって、あるいは「どうせ自分なんて、せいぜい・・・だから」とか「自分は化学をずっとやるって決めたわけじゃないし…」、「本当の自分を今探してるところだから…」、果ては「実力が評価される程世の中フェアじゃない。運とコネでしょ!?」などと頑張らない理由探しをついしてしまい、何にも本気で取り組めないモラトリアム状態(moratorium, ここでは本来の英語の意味ではなくて、心理学用語です。社会進出前の若年層にありがちな、どっちにも進めない停滞した状況のことです。)からどうやって脱出して、自分の目標、夢に向かって突き進む、迷っていない状態になれるのか、すなわちアイデンティティーの確立(identity = 自我同一性, これも心理学用語です。)を果たせるのか、がテーマです。

先にその答えを私が持っていないことを暴露せねばなりません。唯一の手段とか最良の方法、などというものは存在せず、役に立つ経験や求められる行動は、一人一人異なっているのが当然です。エッセイ1の「吉田先生はどうやって英語が出来るようになったのか?」では、「吉田少年」が「吉田先生」に変わっていく思い出話を書きましたが、例えば私の場合、イタリア語を勉強する、ということが、結果的にアイデンティティーの確立につながったわけです。しかしモラトリアムの渦中にあった吉田少年にそのことが分かっていたわけではありませんし、イタリア語が万人に効く特効薬なはずもありません。千差万別なのですが、社会進出を目前にした若年層が置かれる典型的な状態には共通性があります。ここではそれをあぶり出し、多くの人にとって役立つのではないかと思われる、「考え方の切り替え」にチャレンジしてみたいと思います。

ただし、アイデンティティーの確立というのは、多くの人にとって容易ならざることです。下手をすれば、社会に出て何年も経っているのに、そこに至らない人もあるでしょう。しかし心配は要りません。だからと言って生きていけないわけではないですし、行き場所がなくなるわけでもありません。ただ、より良い状態というか、充実した生き方のために望ましいというだけです。多くの場合、アイデンティティーを確立した状態にある人は、周囲から見て「大人っぽく」見えます。年齢、外見には関係なく、です。この文章を読むとアイデンティティーが即座に確立されるわけではありませんし、相変わらず、悩ましく、苦しいかも知れません。でも心配しないでください。それは自分がモラトリアムを脱するためにもがいている証です。そんなあなたは、ちゃんと前進しています。もっと心配になるのは、自分がモラトリアムにはまっていることさえ意識できていない、子供っぽい状態にある人です。

他律と自律、オートノミーの獲得、そして自立
「大人=自立した人」というのが世間一般の理解かもしれません。「自立」には経済的自立も含まれることが多いですが、では経済的に独立していない専業主婦(主夫もアリ!)は大人ではないかと問えば、もちろんそんなことはありません。大人であるために大切なのは「自律」です。「自律」とは、他者にコントロールされているのではなく、自分の生き方を自分で律することが出来ている状態、のことです。人の言うことを聞かず、自分勝手に反社会的に生きる、という意味ではありません。別の言い方をすれば、「オートノミーの獲得」です(autonomy = the ability to act and make decisions without being controlled by anyone else, Oxford辞典の説明)。どうしたらオートノミーを獲得できるのか?について踏み込んでみましょう。

「自律」の反対は「他律」です。実はほとんどの人が「他律」の状態にあると言っても過言ではないでしょう。かくいう私も、自分が「他律」され、それゆえにプレッシャーやストレスに苛まれる日常を送っていると感じることが多いです。「オートノミーの獲得」は「アイデンティティーの確立」以上に難しい課題かも知れませんね。「他律」とは、上記の自律の反対をたどれば、「自分の生き方が他者に支配されている状態」となります。しかし、他者の要求に応じて仕事をする、ということと同じではありません。もっと根源的な、「自分の在りかた」に関わることであって、たとえ他者、あるいは社会的要求に従って仕事をしていても、自分自身は「自律」の状態にある、というのは可能なはずです。

すなわち「他律」された状態というのは、自分の行動、さらには考え方までもが「他者から(あるいは社会から)どの様に見えているか」に支配されてしまっている状態です。他者の、あるいは世の中の期待に応えるように努力すること、というのは何も問題のない、良いことの様に聞こえますが、ここで問題視しているのはその言葉からイメージされる綺麗なことを指してはいないからです。「他者」というのは、実は多くの場合自分よりも社会的地位が上の人、例えば会社であれば上司、社会においては目上の人で、自分よりも影響力の大きい(自分の将来に対しても影響力を持ち得る)人のことです。「社会」というのは、特定の個人には帰属されませんが、「世の中は自分が○○○の様であることを求めている、期待している」と圧力をかけてくる、姿のない存在です。自分が勝手に作り上げているイメージ、逆らうことの出来ない巨大な存在、強力な規範、と言ってもいいでしょう。自分の行動や考え方を縛るそういう「枠」が、自分を息苦しくし、不安に陥れ、さらには自由な発想、創造性を失わせているのです。実のところ、「枠」は他律された自分自身が生み出しているのであり、必然としてそこにあるわけではないのです。そのことに気づき、考え方を切り替え、「自律」の状態に至れば、「枠」は自然と崩壊し、もっと楽に、「夢」が「不安」に打ち勝った、創造的でワクワクする生き方が出来るはずです。

と、ここまで書くと、いよいよ「他人のことなど気にせず自分勝手に生きろ。反社会的になれ!」と言っているように聞こえますが、そうではありません。個性的な人というのは身勝手な人と同じではなく、他者から称賛される個性というのは、社会的規範を全く踏み外すことなく生き、そのうえでその人だけが持つ独創的な考え方を提示したり、創作を行ったり出来る価値創成能力です。なんだかとても難しいことの様ですが、そうでもありません。具体的には例えばこういうケースです。何かの問題、課題に対してどう考えるか、あるいは何をするか、という場面で、大多数の人が判で押したように(周囲をキョロキョロしながら)同じことを言う、または同じ行動をする中で、自分自身の経験などに基づいて独自の意見が言える、独創的な解決策を見いだせる、という人は「個性的」です。「彼(彼女)だったら、こういう時にどうするかな?きっと他の人では思いつかないようなことを言ってくれそうだから、聞いてみよう!」と思ってもらえる人、個性的で創造性のある魅力的な人です。会社としては是非雇いたい、同僚としては是非付き合いたい人です。個性的な人って、もちろん変人のことではありません。逆に「他律」された状態こそが、没個性な言動や行動を生んでいると言えるでしょう。当の本人は、一生懸命に周囲の期待に応えよう、周りに合わせようと頑張っているにも関わらず、です。きっと息苦しく、重苦しいプレッシャーと戦っているのに。

他律の象徴、「適齢期」という考え方、同調のための同調
さて、ではどうやって「自律」された状態になり、オートノミーを獲得できるのでしょうか?それにはまず、自分自身が「他律」されてしまっていることを確認し、それに向き合うことからはじめると良いでしょう。知らず知らずのうちに、刷り込まれ、当たり前の様に受け入れてしまっている他律の典型は、特に日本の社会に根強い「適齢期」という考え方です。「就職適齢期」、「結婚適齢期」、「転職するなら○○歳が限界」、これからそれらを迎える若年層に限った話ではなくて、「○○歳になったんだから、自分もそろそろ…」とか「いい歳して、あの人は何?」みたいに高年層を縛る適齢期もあります。「普通こうでしょ?」とか「空気読めよ…」の様な日本に蔓延する「フツウ」にも、人々を枠にはめ、創造性を失わせる毒が潜んでいます。一方でこれら適齢期に自分を合わせ、フツウに従っている限り、それらが自分を支える社会的後ろ盾になって(と思い込んでいるだけですが)、ある意味自分が楽になる、というのも日本の社会の特徴です。私の知る限り、西洋社会ではこういう社会的圧力はそこまでひどくはありません。少なくとも個々人はそれほど気にしていません。だから個性、創造性の点で強いのだと思います。詰めが甘いですけどね。必要とあれば個性を捨てて同調し、チームワークが出来ることは日本人の美徳であり、過去の成功と発展を支えたというのも事実なので、悩ましいところではあります。創造性と協調性の両立、これが理想でしょう。成長の限界にぶち当たり、社会問題が山積する今日の状態を打破し、新しい幸福な社会を創造出来るのは、個性に満ちた、自律された若い大人たちだけです(年寄りは、だんだん「諦め」はじめます)。

話を社会進出前の、学生であるあなたに絞りましょう。世間との付き合いにおいて、さらには友人と思っている人との付き合いでさえ、同調のための同調をしてしまっていませんか?周りに合わせること自体が目的化していないでしょうか?例えば周囲が良いということを良いと言い、面白いということを面白いと言い、周囲が期待する、周囲が望んでいる(と自分が思い込んでいる)自分になろうと、自分を枠にはめていませんか?それこそが「他律」であり、自分の評価の基準を他者に求めている状態です。そもそも、なぜ大学に来たのですか?「みんな行くから」ではありませんでしたか?なぜ修士課程に進学するの?就職に有利だから?誰がそんなこと言った?本当にそう?就職ってのは「会社に雇われる」ってこととイコール?会社に雇われないと社会人にはなれないの?結婚はしなくちゃならない?何歳までに?○○歳までには親になり、マイホーム?そういう盲目的に信じ、受け入れてしまっている常識が、あなたを縛っているのです。そんな「世間の常識」に、実はさしたる根拠はありません。そりゃあ自分の食べる分ぐらい自分で何とか出来る甲斐性は欲しいでしょう(でも、それだけならアルバイトで十分)。結婚することも、子供を持つことも、悪いことではありません。しかし、絶対にしなくてはならないことでもありません。それらは社会人になる条件ではありません。一方でいわゆる就職をしなくとも、自分で会社を興しても、あるいは一人で創作する職人さんも社会人です。決まりなんてありません。あなたは、自由なんです。

自律は就職、そして大人への準備
他律された人と、自律出来ている人では、就職に対する考え方に大きな開きがあります。前者は受け身になって「会社に雇ってもらう」と考え、後者は「自分の職業を得る」という能動的な自分の行動の一つと捉えます。世間体を気にする人は、会社の知名度や、組織の大きさを気にします。自分にやりたいことがハッキリあるわけではないので、面接でも自分が会社から「どう見られているか」を気にします。面接員の質問に対しても、相手が求めている受け答え、その場に合わせることを目指します。経験が無いので、どうしていいか分からないから、「マニュアル本」に頼ります。当然ロクな結果にはなりません。何社もエントリーして、「どこか私を受け入れて!」と悲壮感が漂ってきます。ついには最悪の一言、「私は真面目が取り柄です。何でもやりますから、こんな私で良かったら是非チャンスを下さい!」を言ってしまいます。サヨウナラ。会社は人助け組織ではありません。逆に「将来会社を助けてくれそうな人」を求めているのです。一方の自律人間にとっては、就職は「自己実現」手段の一つです。なりたい自分になる方法は、会社という組織に属して、サラリーマンになることが唯一ではありませんが、その会社で働くことがその手段と考えるに至れば、そこに求めるものがあり、一つ一つの言動に(他者とは異なる)「自分」が自然に現れます。当然面接員もそんなあなたの魅力を見抜きます。オメデトウ。

学生のうちに、そんな自分を準備しておくことが、社会デビューのためにとても大切です。大切な、大切な自分自身に真っ向から向き合うことを避け、モラトリアム、他律から脱することが出来ないまま、周囲と同調すること自体が目的となって、流されるまま流れて学生生活を送ってしまった人の末路はとても残念なことになってしまいます。「4年生だ!就職活動しなくちゃ!」なんて言っている人は、もう手遅れです。仮に就職しても(大抵は就職出来ますから大丈夫、すぐ辞めちゃうかも知れないけどね!)、子供っぽさが抜けず、会社の、上司の、同僚の、後輩の、ご近所の、さらには親戚や家族の期待に応える(自分が作った枠に自分を合わせる)ことに自分を消耗し、それらがうまく出来ていないと感じるとプレッシャーやストレスになり、創造だの自己実現だのはどんどん遠のいていきます。それに苦しまなくなるのは、十分歳をとって「これで良かったんだ…」と合理化するのを待つか、最初っから自己実現など関係なく、流されるまま生きることに疑問を感じない「不感症」になるか、のどちらかです。「もったいない」です。とても、もったいない。あなたは、世界にひとつの貴重な人材です。代えがたい個性(になれるはず)です。一度きりの人生、目いっぱいフルサイズで生きたら良いじゃないですか。

自律を可能にするのは「自己信頼」、その獲得には修羅場の経験
ここまで書いてきたことを振り返ると、課題が見えてきます。なぜ人は他律に甘んじてしまうのか、他律から脱することが難しいのか?それは、他律された状態の方が、ある意味楽に生きられるからです。今の自分が良いか、悪いかの判断、さらには自分の目標さえも、自分で決める必要がなく、他者に依存できるからです。逆に、自律した生き方をするには、これらを全て自分で決め、その結果起こることについても自分で責任を負うことになります。それって、とてもシンドイことです。自分のやりたいことを自分で決め、日々の生活でも右に行くか、左に行くかをいちいち自分で決めるというのは大変ですね(もちろん、相談したり、アドバイスをもらったりすることは当然で、それは依存ではありません)。でも、みなさんの多くが憧れる、クリエイティブな研究開発の仕事というのは、まさにそれの連続です。それが出来ないで他者に依存している人は、ただのお手伝いさんで、研究者ではありません。まあ研究者に限らず、自律した生き方を実践出来ている人は、はたから見て大人っぽく、カッコ良く見えますし、迷いが無い、自信満々な人に見えます。しかし「自信」は「慢心」と紙一重ですし、実はチャレンジしている人(先の見えない研究はまさにそれ)は自信があるからやっているのではなく、ただそこに目標があるから、ひたむきに、自分を信じて懸命にそれと向き合っているだけなのです。「自分を信じて…」、やっぱり「自信」と読めますか?ここでは少し踏み込んで、「自己信頼」という言葉に置き換えたら良いかと思います。出来るかどうか分からないこと、その先に何が待っているか分からないことに対して、「きっと何とかなるさ」と一定の楽観を持って、自分を信頼してやれるかどうか、です。すなわち、結果がどうなるか、さらにはその結果が他者からどの様に見られるか、ということを気にして怯え、不安に負けて足がすくむのではなくて、「この先を見たい!」「何かを見つけたい!」というワクワク、夢が打ち勝って、力強く自分の意志で前進するために必要なのが「自己信頼」です。

「自己信頼」を獲得するために最も役に立つのは、経験、さらに言えば「修羅場をかいくぐった経験」です。私はよく「人生は後ろ向き」という話をします。「前向きに生きよう!」などとよく言いますが、実は未来は見えません。だから楽しみで、ワクワクするのですが、後ろ向きに歩くと電柱にぶつかるかも知れませんし、いつ崖から落ちるかも知れません。だから不安や恐怖を感じてもおかしくありません。見えない未来に向かって、次の(後ろ向きの)一歩を右に出すか、左に出すか、それをどうしたら決められるでしょう?未来は見えませんが、「過去は見える」のです。すなわち、自分がそれまでにした経験、そこから学んだことを基準にして、次の一歩を決めているのです。「あの時はああだったから、今回もきっと…」あるいは「あの時はああしたけど、今回はこうしよう」など、自分が経験した過去が判断の基準になります。但し、漫然と過ごした過去では役に立ちません。物凄く大変だった、あれを修羅場と言わずして何と言うか、と思える様な場面を乗り越えた経験こそが、「きっと大丈夫」と自分を信頼する源になります。私は50歳の大学教授、20歳そこそこの学生に「経験の多さだよ」と言うのは酷に聞こえるかと思います。しかし、実はみなさんにも既に「修羅場」、少なくともそうなる可能性のあった経験はあるハズです。例えば、大学入試がそれです。「大学、どこも合格しなかったらどうしよう?」「絶対○○大学に合格したい!でも、出来るかなあ?」と緊張と不安の中受験勉強に向き合い、模試の成績に一喜一憂し、という経験をしませんでしたか?自分が真剣にそれに向き合い、自分の全てをかけてやり抜こう、としたならば、それは「プチ修羅場」ぐらいにはなっていたでしょう。願い叶って山形大学だったか、夢破れて山形大学だったかは人それぞれです。しかし、大切なのは、それが本気で取り組んだ結果であったなら、「あの時は大変だった。でも何とかなって今も自分はこうしている」と思えて、次にもっと大変なことにぶち当たった時にも、「あの時も何とかなったんだから、あとは自分を信じて…」と言えるはずです。しかし、大学入試に限ったことではないですが、本気で向き合わなかった、逃げちゃった、という経験だと、自己信頼につながりませんし、厳しい局面でまた逃げる、あるいは壁を回避する方法を考えることしかしない、というふうになってしまいます。人は、同じような行動を繰り返しがちです。

まとめと今日から出来る頭のきりかえ
そろそろ整理して、話をまとめられそうです。何事にも、とは言いませんが、少なくとも自分がやり遂げたいと願うことに対しては、全力で向き合い、その渦中にある自分にも、さらにはその結果に対しても、真っ向から向き合うことが大切です。それが「自己信頼」を得るための経験になります。いつもそういう生き方をしていれば、例えば社会人になってから、とても責任の重い仕事を任せられた時に、「ああ、大学入試でビビってた自分って子供だったな。あんなのこれに比べたら修羅場でも何でもないわ。でもまあ、あの時も何とか出来たんだから、今回も自分が怠けたことさえしてなければ、何とかなるさ、きっと!」と言えるようになるのです。そういう修羅場経験の繰り返しで、気が付くと自分がとても強くなり、不安や恐怖に夢やワクワクで打ち勝つことが出来るようになります。だから「本気」で自分に向き合ってください。それだけでいい。そうしたら自律した生き方をする勇気と、その結果を受け入れればいいんだと思える楽観が可能になります。そして気が付けば「自立した大人」になっていることでしょう。

最後に、英語の勉強に話を戻します。「英語やらなきゃ」は他律で、「英語やりたい!」は自律ですね。英語の勉強がどうして重苦しく、厄介なのでしょうか?英語出来ないと大学に入れない、就職できない、出世できない、ということが英語を勉強する理由ならば、完璧な他律であり、嫌なのも当然です。ましてや、大学の成績などを気にしているとすれば、仮に成績が良かったとしても、英語が出来るようにはなりません。しかし「英語ごときに自己実現を邪魔されたくない、グローバルに活躍する、私が一番会ってみたい未来の私のためのパスポート!」と思っている自律人間は、当然「英語やりたい!」です。ずっと努力を惜しまず、勉強し続けますから、きっと出来るようになります。

「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」 二十一回猛士(吉田松陰)
(至誠をもって対すれば動かすことができないものはない)

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」 上杉鷹山
(特に後半が重要! 「出来ない出来ないってピーピー言ってるヤツは、まだ本気でやってねえから出来ねえんだよ!」と戒めている。厳しいね!でもその通り!)

「本気でやりたいことが見つかったら、きっと頑張れる」ではないのです(それは、モラトリアム人間の典型的な言い訳)。本気で頑張れば、やりたいことが見つかり、自分が何者かが分かり、自己信頼を得て迷わず突き進めるようになるのです。さあ、自分と向き合い、まずは目の前の目標に本気でぶつかり、自律した生き方を今日から始めて、自立した大人になることを目指して下さい!あなたは無限の可能性なんです!   
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